新しいか古いかでいったら、果てしなく古いだろうとは思う。
今そして現在の切っ先が、まぶたの裏をチクチクとくすぐる感覚、つまり「サウダーヂ」や「NINIFUNI」が見せつけてくれたような、どうにもならなさってのはまるで無いように思う。
でも、こういうのが観たかったんだよ、という気持ちは痛烈にあるし、もう一度言うけど、こういうのが観たいんだよ。そういう願望は抗いがたく常にあります。
「東京プレイボーイクラブ」をみました。シネマート新宿で。
ところで赤羽と屍は似てると思います。OK横丁。
東京の赤羽ひいては北区の場末感といったらホントすごくて、そもそも北区に行く用事って基本まずないんですよ。北区に住んでるとか、北区で手に汗かいてるとか、北区に生まれ育ったとか、北区で生きてるとか頑張ってるとか生き続けてるとか、そういう選ばれし人たちだけが北区を闊歩できるわけで、それ以外の人たちは北区になかなか辿り着けません。私は北区についてそう思ってる。さっきから何度も「北区」って打鍵してるのに、うちのエイトックは執拗に「帰宅」を勧めてきやがる。それぐらい北区は場末なんです。
縁起でもないことで恐縮だけれど、東京の路上で野垂れ死んだとしましょうか。ところで古今東京、人々が口にするのを聞くには、東京って街は冷たいところらしいです。無関心やら無頓着っていうんでしょうか。それとも無愛想? どうでもいいんですけど、東京は冷たいです。冷たいってことにしとかないと生きていけない人たちがたくさんいるんです。だから東京は冷たくていいじゃないか。いつだって東京は人々の前に冷たく立ちはだかるべきなのです。
だもんで大田区は田園調布あたりの路上でおっちんだとしても、鼓動の止まった人間なんぞに対して、だれも何ともすっからかん思わない。もちろん東京だからね。東京のだれからも賞賛を浴びない死体は、風に流され、流れ着いた先はいつだって北区であるっていう話を突発的に作れてしまうぐらいに、北区は場末だなっていう話。世も末だ。
北区っていうのはその名の通り東京の北にありますが、ひるがえって東京の南のほうに行きましょうよ。蒲田あたりを尻目に多摩川を越えてしまえば何があるかっていえば、そりゃ川崎です。
川崎に来てみれば、川崎市民ならだれでも知ってる、朝に流れるフレーズが思い浮かびます
すきぃーですっ、かっわっさっきっ、あいっのまちっ。
寝床で聞いてしまうと、あぁ今日もゴミが出せなかった、そんな後悔と懺悔だけが頭によぎる歌。
この映画、どうにも画面が明るすぎやしないかっていうのはある。
夜の街や夜の店内はもっと暗くていいじゃないか。
もっと影を作るべきなんじゃないか。
ずいぶんと悔しい思いが浮かびあがります。
それでも。
赤羽と川崎がくっついたとき。
この映画、すこぶるいいなって思いました。
この監督はもっとやれると思います。
やってもいいと思う。
もっとやって欲しい。
もしくは。
まるでやらない、しっとりした気配、そういう映画も撮れてしまいそう。
神奈川の場末でなく先端である川崎において、絶賛ワタクシ風邪気味のなか、焼酎を煽りっぱなしで、ろれつが回らない限りですが、なんにせよ、どうであれ、この監督の作品を次もみようと思いました。
おっぱいが出まくってもおかしくない。
むしろおっぱいが出まくるべき映画なのにおっぱいがまったく出てこない。
胸の谷間だけにとどめた奥ゆかしさ。
とっても小粋な上品さが画面に溢れていました。
そうして私はウキウキ鼻水垂らしながらに246をバイクで走って、やっとこさ我が家に到達。もう寝ます。