恥とマスは掻き捨てナマステ

ヨーグルトが好きです。アートと映画と音楽と野球は、もっと好きなようです。

スピルバーグ『戦火の馬』は傑作ではない。

f:id:mondobizarro:20120309004244p:plainそもそも『戦火の馬』はどこか妙ちくりん。

父親が競売で手に入れた馬を家に連れて帰ってきたとき、出迎えた母親と息子のシーン。
母親のすぐ隣には息子がいるはずなのに。
父親と母親のやり取りの中での切り返しのとき、母親の隣には映るべき息子が映っていない。
しかし、カメラが引いて三人と馬を映し出したとき、やはり母親のすぐ隣には息子が存在している。
父親を批判する母親のポジションに息子は立っておらず、父親の心情に寄り添っているとでも言いたいのか。

はたまた、あの家で飼われているガチョウは一体なんなのか。
取り立てに来た地主たちをいきなり執拗に追いかけるあのガチョウ。
鍬のための首輪を息子が馬の首に掛けようとしたとき、どこからともなくやってきて、息子と馬の交流の始終を目撃してしまうガチョウ。
あのガチョウに一体どれほどの意味があるのか。

農耕馬ではないサラブレッドの馬を操り、どうにか畑を耕そうとする息子。
村のみんなが集まって、息子と馬の無駄であるべき努力を眺めている。
母親も家の窓から息子たちを見ている。
編み物をしながら。
やがて雨が降り出す。
村のみんなは帰って行く。
母親は家を飛び出し、息子の近くへと駆け寄る。
編み物の毛玉をどこかで落としたらしいが、親切な老婆が母親に渡してくれる。
地主は母親に一言話しかけようとする。
が、思いとどまって帰って行く。
しばらくして。
息子と馬の耕作がなんと成功する。
雨によって固かった土壌が柔らかくなったおかげだ。
村のみんながまた戻ってくる。
地主も戻ってくる。
そしてとうとう地主が母親に話しかける。
すると母親、編み物の棒針の切っ先を地主に向けて、啖呵を切ってみせる。
どこにどんな伏線があったものか、この映画まったく予断を許さない。

やがて馬の乗り手が転々と変わるなか、物語の終着点がやっとこさ見えてきたところで、チャップリンの『街の灯』を思い出させる趣向がいきなり出てくる。それはイーストウッドの『ヒア アフター』でもあるのだろう。そうしてやっと気づく。盲目の発想を映像化するために、あの毒ガス攻撃はあったのだと。

最後の夕焼けは、もはや西部劇のそれでしかなく、ここに至るすべてにおいて得た結論として、スピルバーグ『戦火の馬』は傑作ではないと言える。
名作なのだ。
自信はないけど。
たぶん名作。