恥とマスは掻き捨てナマステ

ヨーグルトが好きです。アートと映画と音楽と野球は、もっと好きなようです。

そのむかし、多摩川の向こうには何も無かった。もしくは外国。

今でこそ多摩川のちょっと以西に住んでいるので、東京から多摩川を越えた先にも街があり、人が息をし、やがて息絶えるという、当たり前すぎる当然のありさまが真っ当に想像できている。

しかし東京23区にどっぷり囚われていた幼いころは、多摩川の向こうなど未開の土地ぐらいに思っていたというか、そもそも関心事の埒外にありすぎて、多摩川以西の地図など、脳のヒダというヒダのどこにも象られていないし、やぶにらみな視界に入るはずもなかった。
一方、都心より離れているとはいえ多摩川よりも東にある吉祥寺や府中、そして国立ならば、やぶにらみ光線でも照らすことができた。しかし多摩川の西にある川崎ともなれば、社会の教科書に出てくる太平洋ベルト地帯の一地域としての存在であり、もはやソドムやゴモラに匹敵するほどに神話上の都市扱いしかできなかったのだ。
二子玉川という場所は世界の最果てであって、その先に見える多摩川の向こうになど、感傷を寄せることなどまるでなく、死後の世界ぐらいに遠いファッキンファーな場所だった。
もちろん小さいころ、親に連れて行ってもらった箱根や京都や九州やシンガポール多摩川の向こうより遠くにあることは、やぶにらみな視野でも見渡せた。でもそれら旅行で行った場所は、生活圏からブッツリ切り離された遠くのどこかでしかなく、箱根ですら外国の感覚だった。
ところで大昔のインド人どもが幻視した世界というのは、蛇の上に乗っかった亀の甲羅の上に並んでいる象たちが支えている大地が我々の世界であって、世界の端っこは崖であり、そこに行けば落ちる。

つまり幼少のわたしはそんな古代インド人の感覚に突き動かされ日々を屈託なく過ごし、鼻紙をクチャクチャと噛みしめ、鼻くそを教室の机の裏にこすり続け、多摩川の向こうは崖になっているわけだから、箱根彫刻の森美術館や熱海秘宝館は星霜をまたいだ惑星として認知していた。
しかしながら、いつしか小賢しい知識の海と情報の網に絡め取られて脳みそが脳くそになった結果、多摩川の向こうにある生命の息吹を感じ取られるほどの知性体へと進化し、宇宙の果てない広さにおののき、ふるえ、わなないた挙げ句、じたばたするほどの度量もないあまり、立派すぎる大人たちは続けざまに酒を飲んで飲んで飲み続け、未来を葬り去ればやがて過去の亡霊とダンシングオールナイトするのでしょう。