恥とマスは掻き捨てナマステ

ヨーグルトが好きです。アートと映画と音楽と野球は、もっと好きなようです。

濡れて、濡れて、強まる絆。

リトル・ランボーズ」を観ました。予告編を観たときから絶対に観に行こうと決めていた映画。川崎はチネチッタで。

まずもっていきなり何を言い出すのかっていう話ですが、わたしたちは残酷な世界で暮らしています。日本国内だけを眺めてみても、毎年の自殺者が12年連続で3万人超。昭和53年ごろからだと今に至るまで毎年2万人超です。ちなみに交通事故による死者の数が1万人を超えたとき、「これは交通戦争だ!」と大騒ぎになり、自動車の安全性の向上や法規の整備などの努力を行った結果、現在では半分近くの死者数に抑えられています。なのに。自殺者が止まらぬ状況は放ったらかしのまま。
ともかく。わたしたちがこの世界で生き延びていくには、残酷すぎる現実の世界と対抗する何かが必要です。その何かが芸術であり文化であり文学であり物語であり映画であると思うのよ。現実だけで生きていくにはこの世界は息苦しすぎる。だからこそわれわれは虚構を必要とする。少しでも息継ぎするために。
というわけで「リトル・ランボーズ」。主人公の少年・ウィルの家は厳格な宗教の規律のもとに暮らしており、テレビや映画や大衆音楽などの娯楽に接することを禁止されている。しかしウィルは想像力の豊かな少年なのだ。自らの想像力を羽ばたかせ、教科書やノート、学校のトイレの壁にひたすら絵を描いている。家庭が、世間が、どんなに彼を抑圧しようと、彼の空想までは抑えられない。そんなウィルがふとしたことから知り合った悪童のリー。そしてリーの家で初めて観た映画「ランボー」。「ランボー」を契機としてウィルは想像力をさらに爆発させ、リーと一緒に映画を撮り始める。というお話。
ティム・バートンの「ビッグ・フィッシュ」もそうなんだけど、楽しい虚構が苦しい現実の対抗軸として存在し、やがて虚構が現実を侵食し、現実世界も楽しくなるっていうお話にわたしは本当に弱くて泣けてしまう。何度でも言うけどわたしたちは現実だけで生きられるほど強くないんだ。「リトル・ランボーズ」のラストで観客は大事なものをきっと見つけられる。きっとだ。
堅苦しいことは抜きにしても。「リトル・ランボーズ」はホント素敵な映画でした。気づいたことをちょこちょこっと。
この映画は重要な契機として事あるごとに「濡れる」。まずウィルとリーが初めて出会ったシーン。ウィルとリーがもみ合って棚の上の金魚鉢が割れ、ふたりの出会いは「濡れる」ことから始まる。
次に映画作りをしているとき。ウィルが木の蔦を使って湖に飛び込む。しかしウィルは泳げない。リーが助けに行き、ウィルを引き揚げる。そして焚き火の前でふたりは絆を交わす。ふたりは「濡れる」ことで友情が深まる。
さらに。ウィルがとあるアクシデントでコールタールみたいな黒い溜まり水に落ち、絶体絶命の危機のとき。またもやリーが助けに入り、リーは自らの存在理由を熱く語る。このときウィルとリーは仲違い状態にあるが、今まで以上に彼らの絆は深まったのだ。またもや「濡れる」ことで。
そしてラスト。リーをウィルが支えている。そのときリーの頬は涙で「濡れている」のだ。
ウィルとリーの友情のプロセスが「濡れる」ことで丹念に描かれていく。実に丁寧な演出だと思います。
最後にラモーンズ好きとして見逃せないことを。この映画ではラモーンズのポスターが出てきます。2回も。1回はウィルが上級生たちの集い場に入ったとき。1回はウィルがピョンピョン跳ねてるとき。ラモーンズの出てくる映画はいい映画だなと心底思う。「ペット・セメタリー」とか「ローラーガールズ・ダイアリー」とか。それ以外は思い出せないけど。