恥とマスは掻き捨てナマステ

ヨーグルトが好きです。アートと映画と音楽と野球は、もっと好きなようです。

袖振り合うも宇宙の円。

アレハンドロ・アメナーバル監督の「アレクサンドリア」を観た。原題は「AGORA」。新宿はピカデリーで。

夜空に瞬く星々。
すると。
蒼く美しく、まん丸の地球が大きく映し出される。夜空ではなく宇宙空間から始まったことにやっと気づく。
この映画で描かれる時代、四世紀のローマに私たちは生きているわけではない。
よって。
この映画の主人公である女性の哲学者ヒュパティアが辿り着く、宇宙の真理がいかなる形であるかを、二十一世紀に生きている私たちは既に知ってしまっている。
だから。
私たちが既知とする事実を巧みに忘却させようと、この映画は丹念に表現していく。
すなわち。
完全なる円。円のイメージを丁寧に充溢させていくことで、私たちの眼であり思考は四世紀のローマへと飛んでいくのだ。
冒頭、大きく映し出される地球の円。そしてタイトル「AGORA」の「O」の全き円。円のイメージが周到かつ大胆に配置されていく。私たちは完璧な円の姿にひたすら魅了されていき、ヒュパティアと同様の価値観に囚われていく。
だからこそ。
ヒュパティアが宇宙の真理に目覚めたとき、私たちも同様にその感動と衝撃の恩恵を受けられるのだ。
なので。
アレクサンドリア」という邦題にはどこにも円のイメージが入っておらず、この映画の制作者たちが執拗に円を提示する企みが、この邦題によって弱められてしまったのが残念でならない。とはいえ、「アゴラ」としたところでカタカナの形からすれば、円はどこにも見当たらないわけで、英語にしろと言うのも無下な頼みだろうから、愚痴に留めておきます。
ともかく。
円のイメージだけでなく、鳥瞰の映像もふんだんに溢れている。私たちが歴史を眺めるとき、当たり前の話として、当事者の気持ちなど忖度できるわけもなく、ひたすら神の視点で見渡すことしかできない。この映画は私たちが歴史を通観するときの限界をそのカメラワークにおいて提示しているわけで、非常に公平な映画になっている。
神々を信ずる者、キリストを信ずる者、ヤハウェを信ずる者。この者たちは等しく人間くさく、自らの信仰に忠実で、時には慈悲深く温厚でもあり、そしてなによりも凶暴だ。罪のない者だけが石を投げられるが、石を投げたとき罪は生まれていく。
とまれ。
アレクサンドリア図書館の巻き物が焚書されるとき、天蓋の円を横切りながら、カメラが反転し、焚書が始まる映像の見事さ。伊達や酔狂でカメラを引っ繰り返してるわけではなく、すべてに意味がある。
そして白眉は。
女性哲学者ヒュパティアがキリスト教への回心を拒み、議会場を後にし、かつての教え子のローマ長官に翻意を迫られたとき。
彼女がもはや後戻りができない状況であることを認めたとき。
彼女の背後にある銅像に私たちは注目せざるをえない。
雌の豹だろうか、それとも雌の獅子か虎か。
なんにせよ。
雌の哺乳類がたくさんの乳飲み子に母乳を与えている銅像を背後にしたとき。
彼女は全ての女性性を背負いながらも、不寛容な一神教の前で女性すべての敗北を宣言させられてしまったのだ。
そうして。
キリスト教の歴史は華開いていく。それはやがて、ラース・フォン・トリアーが「アンチクライスト*1を生み出す肥やしにもなっていくのだろう。