恥とマスは掻き捨てナマステ

ヨーグルトが好きです。アートと映画と音楽と野球は、もっと好きなようです。

映画を観た。

妖刀・村松正浩監督の「グレイト・グランマ・イズ・スティル・アライブ」(以下「GGSA」)を観たのだった。六本木はアマンドじゃなくてシネマートで。

監督さんが舞台挨拶でネタバレを慎重かつ巧妙に回避されていました。よって。その意志を尊重します。観てない人はこの先を読んじゃダメだよ。ネタバレしてると思います。明瞭に述べるつもりはないです。断片的に語るばかり。だけど。先入観は禁物。観てる人でもよく分からないとは思うけど。呂律の軌道が怪しい。ともかく。観てない人は読まないでください。この先、立入禁止。有刺鉄線。
★鉄塔と着物という取り合わせの妙。無骨な物体と小粋な女体。眼を細めなくとも遠くにあれば、大きすぎて偉大なものだって小さく見える。映画も同じ。スクリーンの中にすべてがすっかり収まってしまう。でも。やっぱ錯覚だったりする。
★女系一族の因習が語られたりする映画で使われる明朝書体。横溝正史を、ひいては市川崑の映画へと思いを馳せてしまう。
★心の機微を表現するのは文学が十八番なはずだけど、映画で人の内面に挑戦したらどうなるか。その最良の答えを、同じ監督さんの「兄兄兄妹」で観たと思ってる。だけど。「GGSA」は更に踏み込んでると思う。人の思考の繋がりが「シンク」で描かれ、「兄兄兄妹」で脳の中身が具現化され、「GGSA」では世界ですら幻視されていく。
★「兄兄兄妹」と「GGSA」を手練れのミステリ映画として観ることだって私たちは出来るはず。伏線は映像で語られているのだ。伏線は最後の最後に回収されて謎は解かれる。観ている間、そのときそのときは何が何だか分からなくても、終わってみれば答えらしきものに辿り着く。主観の紡ぎ出すめくるめく白昼夢。
★映画は夢と相性がいいなんて言うけれども。すなわち映画とは虚実皮膜なわけで。あっちとこっちを往還する。「GGSA」はそんな映画だと思う。硬い米粒たちが翌朝おむすびになったりするようなもの。立ち並ぶおむすびは去りゆく憶い出を弔う墓標に見える。
村松正浩の映画からはSFの手触りが感じられる。SFといってもイーガン的なゴリゴリなものではない。藤子・F・不二雄の描いたSF(すこし・ふしぎ)の感触。ところで。「スラッカーズ」は野球を題材にしたもの。脚本は別の人の手によるもの。なので物語はともかくとして。「スラッカーズ」を観たとき、あだち充の漫画を彷彿とさせる素敵な表現が為されている映画だなと思った。
藤子・F・不二雄だとかあだち充だとか。映画を漫画のように捉えてしまうのは余りに不遜なことなのかも。けれど。私は分け隔てなく映画も漫画も好きなので。
★最後に「脚」。以前に別の場所でも書いたことがある。村松正浩の映画といえば「脚」だろうと。


「GGSA」にも「脚」が出てきたよ。いちばん最初に。とはいえ。「脚」が「脚」が、と言ってるばかりじゃ仕方ないけど。「脚」ばかりを観てるわけじゃないけど。「脚」が出なきゃいけないってわけじゃない。でも今回も「脚」でした。
いやはや。
あんなことがありましたが。
映画に勇気づけられる日々が続いてる。
立っていきたいと思う。
まだ生きてるんだぞって。