恥とマスは掻き捨てナマステ

ヨーグルトが好きです。アートと映画と音楽と野球は、もっと好きなようです。

明日のチンポ。


渋谷駅に飾られている「明日の神話」に福島原発の絵が勝手に付け足されたとき、「岡本太郎が生きてたら認めない」だの「岡本太郎なら喜ぶ」だの、どちらの意見にしろ、死んでる人間の気持ちを代弁するイタコ気取りがわんさか登場してスピリチュアルブームはまだ死んじゃいなかったのだけれども、芸術家集団のChim↑Pomが手がけたという続報が流れると、広島の空に「ピカッ」の飛行機雲を描いた過去のことも絡めつつ、「けしからん」「不謹慎」「趣味が悪い」と、眉をしかめた表情がネットワーク上にたくさん浮かんでいる。
「けしからぬ!」と怒鳴るのは、道徳的感想であって芸術的感想ではない。「不謹慎だ!」と叫ぶのも行儀論的感想であって芸術的なそれではない。「趣味ワルッ!」と嫌悪感を示すのは芸術的感想に近そうだけど、これといった根拠のない生理的な反応にこそ近い。
今の時代の芸術家っていうのは、パトロンの依頼を受けて作っていた時代とは違うわけで、たった一人の大金持ちを喜ばせればウヒャーわかめ酒ーというわけにはいかず、自らが作り出す芸術の価値を自由市場に認めさせなければならない。あけっぴろげに言えば、こいつの作品は値が上がる、と思わせないといけない。
作品の値段を吊り上げるには、まずは衆目を集めて知名度を上げておく必要があり、そりゃそうだ、誰も知らない芸術家の作品など誰が買うというのだ、良いものを作っていれば必ず誰かが見つけてくれる、そんな夢見がちで純粋に善良だった彼らはやがて死に、彼らの朽ち果てた体は通報を受けて彼らの孤独で薄汚れた部屋に踏み入った警察官が見つけてくれた、だから世の中に対してショッキングなパフォーマンスを仕掛けて、悪評だろうがなんだろうが名前を売りまくることが、名と値を上げていく早道だ。
なので、チンポなどという存在は道徳で当てこすればこするほどに背徳の喜びに打ち震えて先っぽから随喜の汁を垂れ流すわけで、チンポを叩きたいなら行儀論はどうにも具合が悪い。
心の底より気に食わないので二度と勃ち上がれないよう滅多打ちにしたいと思うのであれば、芸術的文脈において宜しくないのだ、だからイカさない、と冷静に説き伏せてチンポを萎れさることが得策だと思う。
いま叩いてる人たちのやってることはチンポにローションを注ぎ込んでいるようなもので、その手は他人のオナニーの手助けをするための手じゃないだろ、俺をしごいてくれよ、とあなたのチンポが啜り泣く声を聞け。