恥とマスは掻き捨てナマステ

ヨーグルトが好きです。アートと映画と音楽と野球は、もっと好きなようです。

傀儡にしか騙れぬ真実。


「VEIN−静脈−」を観ました。渋谷はアップリンクXで。
岡本芳一、またの名を百鬼どんどろ。等身大の人形を用いて劇を演ずる人形師。2010年の7月6日に骨髄異形成症候群による合併症で鬼籍へ。
などと訳知り顔で説明してみましたが、私が岡本芳一の名前を知ったのは世を既に去られた後。瀬々敬久の映画「ヘヴンズ ストーリー」で知りました。なので実際にその人形劇を観たことはありません。
ヘヴンズ ストーリー」で合間合間に挟まれる岡本芳一の人形劇。そのあやかしの世界にすっかり魅了されてしまい、ところが氏は既に他界、もはや人形劇を観ることは叶わぬ幻か、されど如何なる形だろうと構いません、観てみたい、と思ってネットを横断していたところ、岡本芳一の映画が上映されるとの情報を得て、待ちに待って観に行った次第でありました。
前半は「人形のいる風景〜ドキュメント・オブ・百鬼どんどろ〜」。岡本芳一の舞台裏の表情を撮ったドキュメンタリー。岡本芳一の静かに語る言葉の数々と目尻に刻まれた皺の数々がとても素敵でした。
従来の人形劇における黒子の存在に違和感を持ったと喋る岡本。黒子という存在は、お約束として後ろに人はいませんよという、演者と客による暗黙の了解事項だと思われます。しかし。人形を後ろで動かしている黒子が人の目にはどうしたって入ってしまいます。人形を操りし人間の存在を消そうとして作り出した黒子という形象が、かえって人間を際立たせてしまう皮肉。岡本は暗黙の了解に屈することなく、黒子の存在に違和感を持ってしまった。
既成に囚われない純粋で透徹な岡本の視線が、のちに等身大の人形を用い、人形を操る人間を黒子としてではなく、人形と一緒にヒトガタとして舞台に立つという、特異な人形劇の形式を生み出したのでしょう。

で。後半は岡本の遺作「VEIN−静脈−」。人形劇として行われた同名の作品を映画化したもの。
包帯を淡く纏いし少女の人形。
そして同じく包帯を仄かに纏いし岡本。
びっくりしました。ドキュメント「人形のいる風景」で登場した数々の人形劇では、岡本と人形は等しく置換可能な存在として舞台に在り続けており、人形と人間の境界が曖昧でした。人形が人間のように蠢き、人間が人形のように可動する。岡本の人形劇の魅力はそこにもあったと思うのです。
しかし。「VEIN−静脈−」では岡本は人間として振る舞い、少女の人形は人形のように扱われている。傷付いた人形は岡本によって生かされており、岡本によって介護され、岡本によって愛でられ、岡本によって愁嘆される存在でしかない。もちろん岡本の卓越した操りにより、人形は生ある者の如く動きます。それでも。この人形劇においては、岡本と人形の関係は非対称的であり、岡本と人形の間にそびえる距離を強く感じさせます。
死を目前に控えた岡本が最後に演じた「VEIN−静脈−」。今まで人形と同化し、人形を家族として向き合ってきた岡本が、最後に見出してしまった、越えがたい人形との距離。それでも。映画は絶望的で哀しく苦しく辛い内容なのだけれど、どこか清々しい印象を残します。それはやはり岡本の向ける人形への視線が温かなものだからに違いないと思いたい。

人形がいたのと同じソファーに身を沈める岡本。その姿は脱力感と同時に達成感をも滲ませています。
人間と人形の関係性を追い求め続けた岡本は血の造られない病魔に冒されるわけですが、いわば血の通わぬ人形へと至る病によって命を落としたといえるわけで、最期の最期に岡本は人形になれたのではないか、と品性の欠片もない感想を私は持ってしまいました。
それはそれとして。上映終了後、渡邊世紀監督によるトークショーがあり、そこで語られた岡本のエピソードが面白かったです。「岡本さんはスリッパを履いて人形劇を演じていたんですが、正直スリッパで劇に臨んでいるというのもどうかと思ったんですけれど、何よりもそのスリッパが何とか旅館などと書かれてるものを使っていたのです」という話。美的なこだわりがあるんだかないんだか皆目不明な岡本芳一。無頓着で奔放だからこそあれだけの人形劇をものにしたのだろうし、こだわらないことで生まれるこだわりもあるのかなぁと思いました。
ともあれ。人間性の豊かな人だったからこそ、人形と息をぴたりと合わせた舞台を演じ続けられたのではないか、そんな風に思えます。