恥とマスは掻き捨てナマステ

ヨーグルトが好きです。アートと映画と音楽と野球は、もっと好きなようです。

人が殺し合うとき破壊神の尻尾はどこを向く。

復讐というものは蝉の脱け殻みたいなものだ。よその人からすればどうでもいいものだとしても、本人にとっては掛け替えのない宝物のようでもある。なんのこっちゃ。
というわけで瀬々敬久の「ヘヴンズ ストーリー」を観ました。渋谷はユーロスペースで。

幼きころ、両親と姉を殺され、ひとりだけ生き残った少女サト。その犯人は逮捕される前に自殺してしまった。
ある日サトは、若い男に妻子を殺された男性のテレビ会見を見る。男性は強い口調で叫んでいた。「犯人を絶対許さない。自分の手で殺してやる」と。サトはその姿に憧憬を抱く。サト自身が復讐したい相手はすでにこの世を去ってしまった。だからサトは男性の復讐の手伝いをしたいという思いを密かに抱くようになる……。
4時間38分という長尺であるこの映画は、ありとあらゆる人々が登場し、絡み合い、輻輳し、復讐に彩られた物語の糸を紡いでいく。
数多い人物たちの人生の側面を、丁寧にシリアスなタッチで描きつつ、それでいてどことなくユーモラスだったり、ショッキングなシーンも織り交ぜていく。
廃墟の窓から石が投げ落とされ、復讐代行屋のすぐそばに落ちるとき。おいおい、本当に危ないぞと画面に引き込まれる。
別れを告げる男を追いかけるべく、アパートの二階から女がいきなり飛び降りるとき。おおおっと衝撃的な画面を目撃してしまった自分の目を疑いたくなる。
だからこの映画は、駅のホームに蒸気機関車がやってくるだけの映画や、観客の下衆な願望に応えてくれるエクスプロイテーション映画にも似て、観るという喜びを存分に味わえる娯楽映画にもなっているのだ。4時間半の長さ、退屈するなどもってのほかなのです。

ともかく。ありとあらゆるところが素晴らしいので、かいつまんで。
冒頭、港の突堤で楽しく遊んでいる少年少女たち。このとき、カメラは水中と水上の境界にあり、水の中を上下しながら少年少女たちを撮し出す。この映画ではなかなかにトリッキーな撮影を随所で施していて、4時間半をまるで間延びさせない理由は画面の多様さにこそある。だから各シーンが観ていて本当に楽しいです。
港のシーンから始まったこの映画は、水の風景がよく出てくる。大海原の見える団地、殺人の行われた河原、追う者・追われる者が侵入していく池、渡し船の行き来する姿が繰り返し映し出されたりもする。映画の題名が「ヘヴンズ ストーリー」だが、西洋的なヘヴン(天国)という印象は全然ない。むしろ水辺が多く出てくるので、ニライカナイ的なイメージのほうが強い。生者の魂は海の向こうからやって来て、死者は海の向こうへと還っていく。タイトルについて監督のインタビューを読むと、

ヘヴンを、西洋的なキリスト教一神教で考えると、この映画はちょっと違うような気がするんです。もっと東洋的というか、人間を含めて、動物、植物、大きく言ったら宇宙とかまで含めて森羅万象な生きとし生けるもの全てが絡まりあう曼荼羅のような世界観で映画を作りたいという思いがありました。

とあるので、題名を英語にしたのは強引すぎるように思える。しかしながら、あえて西洋の雰囲気を用いたようにも思える。西洋の読みかえが十八番である日本を舞台としてるのだから。

さてさて、映画の終盤、不毛な殺し合いが行われた場に少女サトが駆けつけてくる。このとき見逃す人はいないだろう、サトの後ろには黒くてゴツゴツとした何かの尻尾が映っている。
なんとゴジラの尻尾なのだ。
どうやらロケーションは横須賀にある「くりはま花の国」というところっぽい。そこにはゴジラの形をした大きな滑り台があるとのこと。もっとも、この映画ではゴジラの全身は映し出されない。黒々とした尻尾だけが少女サトの背後に映されるのみだ。復讐を追い求めつづけた映画のクライマックスで、遊び心だろうが稚気だろうが、ゴジラをチラッと出すなんて実に唸らされるばかり。この映画では無駄な画なんて決して出てこないんだから。
あとひとつ。サトが蝉の脱け殻を取るために男性に肩車されたとき、恍惚の表情を浮かべる。憧れの男性を初めて見たときに失禁した幼きときの思い出がサトの頭と股間をよぎったのだ。エロスの描き方がとっても鮮やか。
ところで。劇中で行われていた、yumehinaと百鬼どんどろの人形劇が妖しく美しく艶めかしくて、実際に見に行ってみたいと思いました。