恥とマスは掻き捨てナマステ

ヨーグルトが好きです。アートと映画と音楽と野球は、もっと好きなようです。

めでたし、めでたし。

おおかみこどもの雨と雪』をみました。
川崎の109シネマズで。初日の初回。

さあ映画が始まり、スクリーンに光が映し出された瞬間から、なんだか急に涙腺がゆるんでしまったらしく、時間にして十五分ぐらい、目のはしっこに涙を溜めては拭き、また溜めては拭きをくり返していました。
なぜじぶんは泣いているんだろう? という疑問に答えをみつけられないまま、おかあさんと雨と雪が三人で生活を送り出すあたりになって、やっとこさ涙も止まり、あとはひっそりと落ち着いて最後まで目を見開いていました。
おおかみこどもの物語を説明したり、解説したりすることは非常にむずかしい。
物語はあってないようなものだし、この物語において、いかにもな事件はなにも起こっていないといえる。しかし一方で事件が常に起こり続けてるともいえる。
いちばん最初に物語のすべてのなにかが起きてしまっているといえるし、そう考えるとその後に起きたことはすべて余禄であり後日談としかいえない。しかしながら、その後に起きたことこそがもちろん中心でもあるわけで、それならば最初に起きたことすべては前日談にしかすぎず、うれし悲しいおまけとして位置づけたっていい。
ちかい未来、おかあさんになる花が、やはりちかい将来おとうさんとなるおおかみおとことはじめて出会う、大学でのくだり。講義の終わり、花がおおかみおとこを追いかけて話しかけるも一度はすげなくされる。建物から出て行くおおかみおとこ。近くを子どもたちが走りすぎる。するとひとりの子どもが転ぶ。おおかみおとこは子どもを抱え起こしてあげる。その一部始終を建物の中からみていた花。花は決意の表情を浮かべ、おおかみおとこに追いつき、またも話しかける。
花とおおかみおとこの待ち合わせの場所。喫茶店のまえ。花はクリーニング屋でのアルバイトを終え、喫茶店へと走ってゆく。でも喫茶店のまえに、いちもくさんに着こうとはしない。花は喫茶店をよく見通せる角で一旦立ち止まる。おおかみおとこの姿を確認する。そうしてから花は喫茶店のまえで待つ、おおかみおとこのもとへやっと駆け寄る。
この映画では万事がこの調子で、とくに大層なことばが語られるわけでもなく、大がかりな事件など起こることもない。起きることはすべていつもの日常にすぎず、だからこそいつだって特別な日常だ。
そういう『おおかみこどもの雨と雪』だから「読む」ことはできない。「みる」ことしかできない。なので、『おおかみこどもの雨と雪』はアニメでしかないし、やはり映画でしかありえない。
映画が始まっていきなり泣けてしまった理由。
みているあいだは分からなかったけれど、みおえてからいま、十時間ほどたって、泣けた理由がやっとなんとなくみつけられたようにも思う。
おおかみおとこと花の出会いや、しなわせなふたりの暮らしぶりの情景や、ましてやふたりの別れに泣いたわけではない。そもそもなにも起きないうちからわたしは泣いていたのだ。
おおかみこどもの雨と雪』がまぎれもなく映画だと思えたから。
だから泣けて、泣けて、どうしようもなく泣けることができた。
だから今年いちばんの映画だとおもうし、今年にかぎらずいちばんの映画だろうし、なにと比較してどうのというわけでなく、やはりいちばん映画なんだろうなっておもいます。
映画をみることができて本当にうれしい。
映画をみることのできる日常を過ごせたことが本当にうれしい。
人生とは、などと大きくえらそうなことではなく、いまの日々のくらしだけがそこにある、そんなすてきな映画でした。
映画がおわって帰りぎわ、ひとりの子どもが館内にひびきわたる大きな声で「おもしろかったねー」とおかあさんに言っていましたとさ。