恥とマスは掻き捨てナマステ

ヨーグルトが好きです。アートと映画と音楽と野球は、もっと好きなようです。

わたしを奪わないで。

「わたしを離さないで」を観ました。
渋谷はル・シネマで。

穏やかで静かな海。
浜辺に打ち残された一艘の船。
その光景を見遣りながら。
三人のうち一人が贖罪を行う。
残る二人の胸に届けられた希望。
しかし。
いつか二人は。
手に入れた微かな希望すら。
奪われる。
そして。
叫び。
叫んで、叫んで、叫んで。
叫びは届かない。
叫びも虚空に奪われる。
奪われて、奪われて、奪われるばかりで。
世界はわたしすら奪い去っていく。
非常なほどに静謐で、非情なほどに美しい映像がひたすら続く。見とれるばかりでした。
十年ぶりに再会したキャリー・マリガンキーラ・ナイトレイ。彼女たちは廊下を歩く。廊下の向こうには眩いばかりの光。手前に影として存在する二人。二人は光に向かって歩く。語り合う。カメラは逆光の中の彼女たちを映し出す。やがてカメラは二人を正面より映す。まばゆい光に照らし出される二人。しかしその光は暮れてゆくだけの夕陽なのだ。彼女たちは抗うことを許されず、「終了」の日へと一歩ずつ近づくだけの身。そしてまたカメラは、彼女たちを逆光の中で捉える。美しくも儚すぎる光を浴びながら、廊下の先を曲がる二つの影。
このシーンに限ることなく、光と影の使い方がとても端正な映画でした。キーラ・ナイトレイキャリー・マリガンに侮蔑の言葉を掛けるシーン。キャリー・マリガンの表情は涙が流れるさまが明瞭に見て取れるほどなのに、憎悪をたぎらせたキーラ・ナイトレイの表情は影の中にあり不明瞭。
人としての存在意義など顧みられず、機能だけを求められる存在の悲哀を描いた物語かとも思うし、それはすなわち私たちでもあるはずなのだけど、素直に悲しむことができませんでした。あの悲劇を通過してしまったあとだからかもしれません。というかあの悲劇のあとで観る映画のすべてにおいて、起きてしまった悲劇と照らし合わせてしまう自分がいるのです。この態度こそが映画を、ひいては芸術を殺してしまうのだと知ってはいても。浮き世を忘れたくて映画を観に行ったのに、映画の中に浮き世の悲しみを探し出してしまう。そんな惰弱な心と共にある日々を私は確かに生きている。あの日から生きてしまっている。
だから。この映画の彼女たちの境遇がなんだか幸せに思えてしまった。なぜなら。彼女たちは誰かのために死んでいったから。彼女たちの死は誰かの生に役立つことで意味があった。だからこそ。思いを馳せてしまう。意味など与えられぬまま。浮かびあがった夥しい遺体のことを。しかし。それでも私は生きている。無駄口を叩く自由がある。なので。みんな好き勝手に生きたっていいじゃん。桜だって見たいんだ。そう思いませんか?