恥とマスは掻き捨てナマステ

ヨーグルトが好きです。アートと映画と音楽と野球は、もっと好きなようです。

意味が知りたいとガールズはトーク。

『別離』をみた。
渋谷。
改装してからは初めてのル・シネマ。
いつの間にやら全席指定制度になってました。

上映終了後、近くにいたガールズのトークが聞こえてきたので紹介。
ガール「意味わかった?」
ガール「全然わかんなかった」
ガール「わたしもわかんなかった。でもさ。アカデミー賞とかすごい賞を何個もとってる映画だから、絶対意味があるはず。意味があるに決まってる。解説を読まなきゃ。解説を読みたいよね。解説を読まないと」

要するに『藪の中』であり『羅生門』なのだけれど、『別離』は藪に分け入り、さらに進む。
事件の真相については確定されるものの、目撃者であり続けた少女の胸中は如何なるものか、各位やぶにらみの推量に留まることしかできず、映画は幕を閉じる。

意味は外になく、中にしかない。

イスラム女性が長衣を翻して階段を駆けくだるさま。
ガソリンスタンドにおいて娘と店員の駆け引きを、父親がミラー越しにあたたかく見守るさま。
裁判に提出するべく、病院で男が父親の診断書をもらおうと画策するも、父親の視線と交錯し、みっともない真似はやめようと男が決断するさま。

目に入ってくる動きのすべてに映画があるわけで、監督の言葉や他人の解説や余人の評論に、あなたにとっての映画があるわけではない。この感想だって然れども。

意味を知りたければ、あなたの目を見開けばいい。
ただひたすら、網膜に映った光を信じればいい。
映画は光なのだから。
映画の冒頭、コピー機を照らし出した光こそが映画なのだと、そう思っちゃえばいいのではないでしょうか。